” ムエタイ ” が打倒K-1を果たした日

” ムエタイ ” が打倒K-1を果たした日
2004年7月7日 東京・代々木競技場第一体育館。
すでに17年以上も経過した古い話で恐縮ですが、この7月7日は私やムエタイ界にとって、非常に重要な日となりました。
『K-1 WORLD MAX』
当時、大人気を誇った魔裟斗選手を中心に、世界中から集まった70kgクラスの強豪たちが世界一の座を競い、熱い闘いを繰り広げていました。
第一回の2002年大会では、”生ける伝説” とのキャッチフレーズでガーウラーン・カーウウィチットがタイ代表として出場して決勝に進出。オランダのアルバート・クラウスにKO負けして準優勝。続いて2003年大会では準決勝でサケッダーオ・ギャットプートーンが魔裟斗にKOされ、”立技最強”と謳われてきたムエタイの権威は落ちるところまで落とされました。
ゴールデンタイムの全国放送(TBS)でムエタイ代表がKOされるのですから、一般視聴者からしてみれば、K-1 > ムエタイのイメージとなってしまうのは至極当然の流れですね。
この2003年の世界トーナメントに出場するタイ代表に関しては紆余曲折がありまして、当時、イングラムジムの預かり選手となっていたサムゴー・ギャットモンテープのK-1 MAX 2003への出場が、イングラムジム代表である私がまったく知らぬ間に、日本のマスコミ誌上で発表されていました。
当時サムゴーは全日本キックに定期参戦しており、その強烈な左ミドルキックで連勝し、人気急上昇中でした。
〔強烈なミドルキックでムエタイの凄さをブアカーオよりも先に見せしめていたサムゴー・ギャットモンテープ〕
全日本キックでの次戦も決まっており、体重的にもスタイル、ルール的にも不利なK-1 MAXに参戦させるつもりはありませんでしたが、エキシビションで来日した際に”何も連絡は来ていないし決まっていません”と表明しても、何故か日本のマスコミ陣は出場するのを前提で質問を繰り返してくるので、とても不思議な、目に見えない何か大きな力が動いている恐ろしさを感じたのを覚えています。
☝︎当時の記事(©️BoutReview)

 

こういった経緯があり、当然のことながら出場はしないのですが、当時のK-1プロデューサーの方からのコメントをメディアを通して見ると、サムゴー本人から直接出場の意思を取っているなど、とても無理がある発言が多く、K-1側のやり方に対する不信感は増していっていました。
2002年にタイ・バンコクでイングラムジムを開設してから、常に “ムエタイ”という競技をいかにして世界中にアピールし、メジャーにしていくかだけを考えて生活していた身からすると、K-1 MAXでのムエタイを踏み台にしたようなプロモーションや、前述のような勝手な出場発表などをされてしまっていたので、私としては、これから自身が目指す事業展開の逆行をしているような、K-1 MAXという巨大なメジャーイベントになんとか一石を投じてやれないものかと、虎視眈々とチャンスを伺っていました。
幸いにも、イングラムジム設立にも多大な協力をしてくださった(株)猪木事務所の取締役(当時アントニオ猪木氏の秘書)の方と懇意にさせていただいていたので、「ムエタイがやられっぱなしなので、なんとか強いムエタイ選手を送り込めないものでしょうか⁉︎」と相談していました。
〔チーム猪木所属としてK-1 MAX出場を果たす。
右から3人目がブアカーオ ©️INOKI INT, inc.〕


当時の私の頭の中にあったのは、
「ブアカーオ・ポー.プラムック(現:バンチャメーク)」でした。
ジム設立前からムエタイの日本語情報誌を発行していたこともあり、昔からブアカーオの試合はリングサイドで観ていましたし、所属ジムの会長からも、なんとか日本での試合を付けてくれないかと頼まれていました。
当時のブアカーオは身体が大きくなり始め、タイ国プロムエタイ協会、オムノーイスタジアム、小林聡も出場したTOYOTAムエマラソントーナメント優勝などのタイトルは獲得していましたが、タイ国内でのマッチメイクは階級的にも難しくなってきた時期でもありました。
(現在と違い、軽量級に人気が集中していた時代でした。)
そういった事情もあり、主戦場を海外に求めたい意向の所属ジム会長からは、執拗にアピールされていました。が、なるべくなら自身のイングラムジムから出したかったのと、以前、ブアカーオと同じジムの選手の日本での試合をアレンジした際、ファイトマネーの選手取り分が非常に少なく、ジムと選手間とで金銭トラブルを起こしていたので、正直、できればそのジムとは関わり合いたくなかったのですが、ブアカーオは非常に魅力のある選手ではありました。
サムゴーを韓国遠征に連れて行った際には、ブアカーオも同じ興行に出場しており、試合前の控え室で、鏡に向かって動くブアカーオのシャドーボクシングを見た際、広背筋が非常に大きく、キレのあるシャドーを見た途端、ピピッと感じるものがありました。
“これは化けるかもしれない”と直感みたいなものを感じました。
所属ジムに対する一抹の不安を抱えながらも、”ブアカーオをなんとかK-1 MAXに…”と決断した瞬間でした。
「これから間違いなくブアカーオが出てくるので、なるべく大きく取り上げてください」と日本からソウルまで取材に来ていたライターの方に頼んだ覚えがあります。
私としても大きな賭けでした。初戦で負けてしまえは終わりですが、海外での年間数試合を保証するリスクの高い内容で、所属ジム、ブアカーオ本人、イングラムジムでの三者契約を結び、海外のマネージメント権を得て、猪木事務所を通してのK-1 MAX出場が決まりました。
〔K-1 MAXタイ代表決定戦でフジ・チャルムサックを破り世界トーナメント出場権を獲得。2004年3月21日@東京・後楽園ホール〕

 

ブアカーオは、ムエタイの世界王座といわれるルムピニーやラジャダムヌンスタジアムのタイトルを獲得したことが無かったことや、体重が70kgに満たなかったことなどからノーマークで、大半の関係者やファンからは優勝は厳しいと見られていました。

ブアカーオ・ポー.プラムックvs 魔裟斗

 

それが、一夜にして世界一に。
延長判定3-0で魔裟斗を下し、K-1 WORLD MAX 2004優勝者となり、世界に”BUAKAW”の名と”MUAYTHAI”の強さをアピールすることに成功しました。
〔魔裟斗を破りK-1MAX2004王者となったブアカーオ 2004年7月7日@東京代々木第一体育館〕

 

〔優勝の翌日、各スポーツ紙一面の自身の記事を見て、優勝の実感を得る〕

 

その後の活躍はご承知の通り。
当時はガオグライ・ゲーンノラシンもK-1で活躍し、ムエタイのアクション映画「マッハ‼︎‼︎‼︎」が公開されるなどもあり、ムエタイの日本国内での知名度が一気に上がってブームとなりました。
2006年には再びブアカーオが優勝しましたが、ムエタイの快進撃が続いてしまうとなにかと不都合が生じると思われ、K-1ではルール改正が進んでいくのでした…
今現在のK-1では、掴みを極力排除したパンチ、キックでの激しいアグレッシブな打ち合いを推奨するルールが定着していますね。
〔2005年1月4日にはムエタイセミナー&サイン会を開催。
セミナーの収益はタイのユニセフに寄付
@ゴールドジム大森 東京ANNEX〕

 

〔2004年の大晦日Dynamite‼︎‼︎では、いまだに語り継がれる試合の魔裟斗vs山本KID徳郁の試合をリングサイドで見守った。※大会打ち上げパーティにて清原氏と ©️INOKI INT, inc.〕

 

タイ国のナショナルスポーツであるムエタイの普及や知名度アップに絶大な貢献をしたと評価され、
現在はタイ国陸軍中尉の階級を与えられています。
同時に、ブアカーオヴィレッジというチェンマイ県の広大な土地の中に自身のバンチャメークジムを開設、運営しています。
引退を表明しているわけではありませんが、年齢的にもそろそろ引退の話しが出てきてもおかしくありません。
今後は指導者や軍高官として、さらにムエタイ界に貢献してくれることを期待したいと思います。

 

©️INGRAM MUAYTHAI GYM

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